統合失調症と向き合う

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野村忠良さん
野村 忠良さん
(のむら・ただよし)
1943年(昭和18年)生まれの66歳。「家族会 東京つくし会」の理事として活躍。母親が統合失調症となり、少年期から苦悩の日々を送ってきた。30歳のときに父親と一緒に家族会に入り、それ以降、30数年にわたり家族会の活動に真摯に取り組んできた。現在も精神科医療の社会的な位置づけ、支援の広がりを目指す活動を行っている。
家族構成:父、母(病気体験者)、姉2人、妹1人
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7父亡きあとの母

「最初に亡くなったのは、父のほうなんですね。父と母は、年が8歳違いますから。父が83歳で亡くなって、母は80歳まで生きましたので、父が亡くなったあと5年間生きていましたね。父も心配しながら亡くなったんですがね、どうなるかなと。

でも母は、父が亡くなったあと、かなり元気になりましてね。どういうわけだろうなと思うんですが。父が母を押さえつけていた面があるのかしらとかね、いろいろ思うんですが。なぜか元気になりましてね。自分でやりたい趣味をどんどん始めまして、お花の師匠の免許まで取ったんですよ、通信教育でね。これには驚きましたね。で、亡くなる2年ぐらい前までは元気だったんです。自分でちゃんと生活を、1人暮らしでね、家事もやっていたし。家の中も割ときれいにしていて。で、亡くなる2年前にがんにかかりましてね、それがだんだん悪くなって入院して亡くなったということですね。一般の病院に入院しましたね。」

●高齢になってからの入院

「出血が激しかったんです、肛門からね。母はそれを痔だとばかり思っていて、重大な病気と思っていなかったんですね。トイレに飛び散るぐらいたくさん血が出ているのに、自分は痔が悪いというふうに思ったんですね。で、痔の薬をしょっちゅうお尻に入れたりして。ところが大きな大きな潰瘍ができていたんですよ。手術してから医者に見せてもらったら、幅3センチ×8センチぐらいの潰瘍ができていたのね。そこからの出血だったんですよ。その周りに小さなできものがあって、それががんだっていうことだったんですね。

それを取り除かなければいけないということで入院したんですが、その入院がね、意外とうまくいったんですよね。なんであれうまく入れたんだったんだろう。母が入院したとき、それは父が亡くなって5年ぐらいしてからですからね、私が医者に連れて行ったときにちゃんと受け入れてくれて。もう母は80歳でしたから、体力もないし普通のおばあさんと変わらなかったからなんじゃない?。それから薬を飲んでいなかったから、精神科を特に出さなかったと思う、精神科の患者であることをね。で、病院でどんな迷惑をかけたかと言いますと、ゴミ箱の置き場がすごく気になる人でね、せっかくお掃除の方が置いていってくれたゴミ箱を違うところにちゃんと隠しに行く訳ね。それで困られたことはある。(その他に)そんなにひどいことはなかったんですね。

僕ね、母が亡くなるとき、どういう亡くなり方になるんだろうって、ほんとに心配だった。でもねとってもちゃんとそこに適応してくれて。僕は、母のところにちょくちょく面会に行きましたけどね。これといって苦情も言われなかったし。だから病院も親切だったんでしょうね、そういう人に対してもね。まあ、ほら、おじいちゃんおばあちゃんになると訳の分からない人いっぱいいるでしょ。そういう中にまぎれこんでしまったという感じですね。精神科に関係なく、しょうがないおばあちゃんだと。高齢者の中に仲間入りしてもらえて、その中の1人という扱いでしたから。特に母はへんな妄想を言うこともなかったですね。不思議なことにね。」

●母への思い

「私は、中学・高校時代は、家がこんなにまで辛い状況になるんだったらもうこの人は死んでほしいというふうなことをほんとに思ったんですね。母がいなくなれば、家はまともになっていけるんではないかと思ったりして…。毎日毎日おかしいことの繰り返しで、近所から引っ越せと言われたり、うちのお葬式もあったんですが、近所の人が来てくれなかったり、いろんなことがありまして。しかし、だんだん母の立場が分かるようになったのは、私も40歳を過ぎたあたりから少しずつ考えられるようになりましてね。自分の心の辛さということをだんだん克服できてきてから母のことをだんだん思い始めて。母もそれなりにたいへんだったんだろうと、子どもとか夫のことをほんとうは愛していたんだろう、病気にならなければ、もしかしたら幸せな良い人生だったかもしれないなということを思って、母に同情をもつようになって…。

で、母が亡くなったあとにはね、お母さん病気だったからしかたがないよねということをほんとうに思うようになって、今ではむしろ病気であったけれども私たちをいろいろ愛してくれたなあという思い出がたくさん蘇りましてね。例えば江ノ島に連れて行ってもらったということも思い出しんですね。母はかなり病気がひどかったけれども自分で子ども達の手をひっぱってね、私と妹を江ノ島の花火の大会に連れて行ってくれたということが思い出された。でもたいへんだったんですよ。たいへんな人出の中を母が私と妹の手をひっぱりながら、もう押しつぶされそうな行列の中でね。で、母のスカートが脱げてしまってね、それがずり落ちたのを、『助けてください、やめてください、押さないでください』って叫んでいたのを憶えているんですね。たいへんな中を母はよく行ったものだと思って…。で、結局、帰れなくなって、江ノ島のどこかの旅館に1泊したようなんですね。そんなことを思い出したりして。だからたいへんな中にも私達を楽しませたいということを一生懸命してくれたんですね。お風呂の中でいろんな歌を歌って聴かせてくれたことも思い出したりしながら、お母さんありがとう、大切なお母さんだったなって、今はそういう心境ですね。」

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