統合失調症と向き合う

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野村忠良さん
野村 忠良さん
(のむら・ただよし)
1943年(昭和18年)生まれの66歳。「家族会 東京つくし会」の理事として活躍。母親が統合失調症となり、少年期から苦悩の日々を送ってきた。30歳のときに父親と一緒に家族会に入り、それ以降、30数年にわたり家族会の活動に真摯に取り組んできた。現在も精神科医療の社会的な位置づけ、支援の広がりを目指す活動を行っている。
家族構成:父、母(病気体験者)、姉2人、妹1人
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2母親の発病について
●次女の急死

「母は、私が生まれる前に発病したんです。(私が生まれる)前に次女がいたんですが、次女が猩紅熱(しょうこうねつ)で7歳で突然亡くなってしまいまして。それがきっかけで発病しまして。父は、(母を)病院に連れて行ったらしいんですけども、自分で脱走してきてしまいまして、それから二度と病院に行かないと(母は)言い張って、父も母の言うことをそのまま聞き入れて、家にずっと置いておいたんですね。

でも(母は)家事はできないし、被害妄想がひどいし…。そのとき父は公務員でしたから官舎にいたんですが、隣の方から財布を取られたとか、あり得ないことを(母が)いろいろ訴えるようになりまして。で、父も官舎にいられなくなりましてね。そこを辞めまして、父はほんとに小さな会社に転職したんですね。で、母を支えながらずっと家事もやってくれましたし、私達子どもを、そのとき次女が亡くなりましたから、長女と私と妹がいるんですが、育ててくれましたね。母は家事をほとんどやらないどころか被害妄想に操られていまして、近所の家に行ってガラスを割ってきたり、挨拶はしないし、1人で変なことを考えているし。一日だいたい寝ていることが多くて、1人で笑っているんですね。空笑と言いますかね、だいたい1人で笑っていたり、独り言を言っていましたね。」

●家の中の状況

「私達もほんとうにたいへんな状況でした。家の中はほんとうに荒れ放題でしたね。そのとき段ボールなどないですから、行李(こうり)だの布団だのがもうあちこちに山のようになっていたりして…。母には片づける能力はまったくありませんし、父はそんな家の片づけまでやる体力も精神力もないですから。会社で働いて帰りに私たちの食事の材料を買ってきて、そして朝ご飯昼ご飯の片づけから始まるんですね。子どもたちの私も気が向いたらやっていたけれども、そんな気には全然なれなくて。姉は姉で自分の勉強に忙しかったり、ときには母と大げんかになって、母とほうきと傘でたたき合いを始めたりしましてね。それが道路に出てたたき合いになったりして、そこを朝の通学時間帯の私の同級生とか学校の先生たちが通るわけですね。ここ(家)は、中学校のすぐ近くでしたから。

私も学校に行きたくなかったんですが、無理をして中学校のときにはよく行きましたけどね。小学校のときはかなり、3分の1ぐらいはずる休みをしていましたね。蕁麻疹(じんましん)になったりもしましたが。頭が痛いだのなんだの言いながらずる休みをして。父は会社に行って(家に)いないものでしたから勝手に休んでいましたね。母は『学校に行きなさい』とも言わないで1人で寝ていることが多かったですね。」

●同居する家族の心

「私は、毎日の生活自体が耐えられなくて、学校に行くのも嫌で、勉強する気にはまったくならない。心の中には、『私の家はいったいどうなるんだろう』という心配、不安、恐怖とか、もうめちゃくちゃですよ、心の中はね。母は何も話を聞いてくれないし、父は話の相手はしてくれるけども、私にとっては安心できる会話は何もできなかった。だいたい家の中、ばらばらでしたからねえ、家族みんなが。父と母はなんかいがみあっている。母が発病する前に、父の親戚たちが非常に母のことを否定的に見ていて、いろんな嫌な経験を母がしたそうなんですね。で、病気になったときには、母はまったく1人ぼっちという感じをもっていたらしくて、次女の着物とかを抱きしめて毎日泣いていたそうですね、母の話によると。父の話によると、母は何も仕事をしないから、非常に困ったということを聞いておりまして。で、母によれば、父が怒ってときにはけっ飛ばしたっていうこともあるらしいんですよね。ずいぶんひどいことをしたと、そのことを母はずっと怒っておりましてね。

でも母は、父のことがずっと好きだったみたいなんですね、内心。だから妄想の中には、私の父が浮気をしているんじゃないかっていう妄想もあったみたいで、父を取られるんじゃないかっていう恐れをもって近所の奥さんたちを敵視して石をぶつけにガラスを割りに行ったと、私は今、そのように推理をしているんですよね。だから、夫は愛していたけれども病気になってしまって家事もできなくて、母は母なりに非常に辛い状況にあったと思うんですね。

(母は)家事をほとんどやれない、思い出すと私たちを連れて出かけたり。思い出すと、ですよね。お掃除も思い出すとほうきをもって立ち上がるんだけれども、何していいか分からないというので、ほうきを投げやって、また寝てしまう。子どもながらにも私達、それを見ててね、手伝いたいと思ったけれどどうやったらいいか見当もつかなくて、いろんなものをたたんだりして置き直したりするんだけども、こちらも心の中に痛みがいっぱいですからね、整理整頓というところじゃない。だから私は、小さい頃から中学校の頃にかけて、普通の社会には入っていけないだろうということを感じていましたね。社会からかなり差別されていて。だから地域の社会に私たちは入れて貰えないんだろうということをすごく思っていましたが…。」

●病気の認識

「私たちね、病名は、どうでも良かったんですね。父もおそらく聞いてはいたんでしょうが、残念なことにその知識をきちんと父が与えられていなかったと思いますね、家族の誰もね。だから私たちは、それはしかたのないことなんだと、どうしようもないことなんだと思っていましたね。つまりこれはもう治るわけがないと思ったんですね、こんなにひどくなってしまってね。で、家に置いておくしかないっていうのが父の考えでしたけど。私たちは『なぜ』と思いましたよね。『どうしてお母さん、こんなふうにして家にいるの』と思っていましたが、父には言えなくてね。しかもどこかに助けてもらえるところがあるなんて知りませんでしょ、病院があるなんて。こんなものなんだって思っていましたよね。

父もいろいろとあちらこちらに相談はしたんでしょうが、正しい知識をもっているとは思えませんでしたね。放置していた、なんの関わりもしなかった、ただ家に置いておいただけ。子ども達もそれに耐えながら生きていたということですよね。だから、コントロールが何もなされていなかった。それを私達、一緒に暮らしながら、どんなにか辛く思ったことでしょうかねぇ。」

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